あかあか録

あかあかの好きなこと語るやつ!

仮面の告白

イヤホンを絡ませることなくポケットにしまう方法を検索するけど、結局それ面倒くさくてそのまま突っ込んじゃいますよね。

久々の更新です。

自分が見た、読んだモノの感想を文字起こしして頭整理したいな〜って思いながら3ヶ月くらい経ってました。ちなみに今コツコツ見てるのは「半沢直樹」です。今更感凄いですよね。

そういえばKing Gnuの後半のやつ、未だに下書きで宙ぶらりん状態だったの思い出しました。すいません、自堕落な生き物なもので… いつか書きます。音楽鑑賞能力上げたいですし。

最近みんな若林さんにインスパイアされて各々文章を公開してるっぽいですね。今なら才能が垣間見得る多くの人のブログに埋もれて僕の駄文をこっそり公開出来るのではないでしょうか。

青い人間の文なので、はえーって思いながら眺めてください〜

 

今回読んだのは「仮面の告白」(著 三島由紀夫)です。

これはどうしてもどうしても読んでみたかったんですよね。あの映画を見た日から、「あの時代の人がいかに言葉を重んじ、思想の明瞭化をおこなったか」に興味を持ち始め、文豪と呼ばれた三島由紀夫の中でも傑作(知人談)と言われる「仮面の告白」を手に取ったわけです。

この本は自伝的作品と言われています。あくまで自伝"的"であり、全てが三島由紀夫の真の過去ではありません。

 

あらすじ(ネタバレです)

小説は「永いあいだ、私は生まれたときの光景を見たことがあると言い張っていた。」という書き出しで始まり、幼年期に味わった「悲劇的なものに対する官能的で根源的な欲求」を連ねていきます。

 

「私」はここからさらに特異(当時において)な素性に気付きます。13歳になると、「私」は磔にされた「聖セバスチャン 」の絵に惹き付けられ、「ejaclatio(射精)」を経験。これが「悪習」の始まりとなりました。また「私」は、野蛮であり見事な体躯の持ち主である同級生の近江に恋をします。近江から、愛すべき癖とも特徴とも欠点とも言えない、完全無欠の幻影を見出し、無邪気な肉欲を孕んだ愛を自覚するも、後に近江への強烈な嫉妬を見出すのです。愛する相手に寸分違わず似たいという欲望があったのです。「私」は異端な嗜好が周囲の友人たちとは違うことを自覚して悩むようになります。

 

大学生になり、「私」は友人宅にて下手なピアノを耳にします。友人の妹、園子が弾いたものでした。彼女の脚を見た「私」は、その肉感を伴わない健康的な美しさに感動します。のちに「私」は召集令状を受け取りますが、軍医の誤診で帰郷します。その後友人草野への面会のため、草野の家族と共に向かう機会があり、そこで「私」は園子との親しみを深め、お互いに恋心を抱き始めます。「私」は園子へのプラトニックラブを感じ、園子なしではこの先を過ごせないだろうという想いを居心地の良さから覚えます。

 

海軍工廠に動員された「私」は以前から園子との文通を続けており、その中で「私」は時と所の隔たりによる人間の存在の抽象化によって、園子へのプラトニックで一途な傾倒と、常規を逸脱した肉の欲情が矛盾なく等質なものとして、自己の中に同時に存在することを感じ、「正常化」の資格を得た人生に希望を持ち始めます。

 

その後「私」は園子の疎開先へ訪れます。別の女性との接吻を経験した「私」は、最初の接吻の不快さが、園子への一途さから来るものだと信じて疑わず、己が得た「正常さ」を確かめるため園子との接吻を試みます。しかし、いざ園子と接吻をした「私」は何の快感も得ることなく、根深い異常性を再び自覚し、「自己欺瞞」を拠り所とする他なくなってしまいます。「私」は園子から逃げることを決意し、結婚の申し込みも婉曲に断ることとなりました。そして、終戦を迎えます。「私」は「日常生活」に苛まれる恐怖を感じるのみでした。

 

戦後、「私」の妹が死にました。涙を流す己に軽薄に「正常」を感じます。園子は別の男と見合いをし婚約しました。「私」が彼女を捨てた当然の結果と自負し、正しかったのだと言い聞かせます。友人に誘われ娼婦と行為をしようとするも、不能をはっきりさせただけで終わりました。「私」は「お前は人間ではないのだ。お前はひと交わりのならない身だ。お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生物だ」という想いが芽生えます。

 

ある日「私」は人妻となった園子と再会します。肉の欲情なしに園子に逢いたいという思いが生じ、この欲求がなんなのか。性欲に根ざさない恋が明々白々な背理でないか否か。その様な自問を抱きます。

 

「私」と園子は密会を重ね、「私にしか分からない不徳の喜びを抜け目なく味わ」いました。いたって脆くも極めて透明な秩序、「正常さ」を生んでいたのです。しかし園子は夫と「私」の間に揺れ始めていました。

 

別れの時刻まで三十分。「私」は園子と踊り場へ向かいます。幾らか踊った後、2人は中庭に出ます。そこで「私」は粗野で逞しい男性に目線を奪われます。男性の腕にある牡丹の刺青を見た時、「私」は情慾に襲われ、彼の胴体が血潮で美しく彩られる様を想像します。「あと五分だわ」園子の言葉を機に「私」の中で何かが残酷な力で2つに引き裂かれます。「私」という存在が何か一種のおそろしい「不在」に入れ替わるのを感じたのです。「私」は園子からの性体験に関する質問に「知っていますね。残念ながら」と嘘をつきます。園子と「私」は同時に腕時計を見ると、もう別れの時刻でした。「私」はもう一度一団がいた方を振り返ると誰もおらず、空っぽの椅子が照りつく日差のなかに置かれ、卓の上にこぼれている何かの飲物が、ぎらぎらと凄まじい反射を上げたのです。

 

ざっくりとこんな感じです。ざっくりとなんて言葉を使っていますが、この要約には中々の時間を要しました。どう噛み砕こうか、どこを抜粋すべきか、非常に悩みました。

 

考察

考察は恐らく要約以上に苦し紛れで繋ぎに違和感のある文章になるかもしれません…

まず冒頭、中々印象的な書き出しですよね。仮面の告白を読んだことがなくとも、この部分は知っている人もいたりしますよね。

"生まれたときの光景を覚えている" 僕はこれを「非科学的事実列挙の予告」のようなものだと捉えました。今から書かれる文章は科学的根拠なるものは存在しえない。冒頭に持ってくることでこの違和感を読書中に読者に与えないような入口を築きあげる効果はあるのではないかと思われます。

また、この記憶には文章中に確かな反駁が存在してますが、「私」はずっとこの光景を信じています。神童性、天才性の表現とも取れますが、それよりも私のみが信ずる物が自分の中に確かに存在していることの主張なのでは?とも思っています。

どちらかと聞かれれば前者に拠る「私」の異端さの示しと考える方が個人的には面白そうです。

ここから「私」の"告白"というものが始まっていきますね。自分はこの告白された性質を⑴"死に対する耽美的価値観" ⑵"男性に対する肉欲" ⑶"女性に対する不能"3つに分類してみました。

⑴⑵は幼年期からの告白から始まります。ジャンヌダルクや門前を通る兵隊の描写がそうです。後にこれが聖セバスチャン、近江、牡丹の刺青の男に映っていきます。⑴と⑵は同時に発生しているものではないかと思っています。根拠は複数あって、まずはジャンヌダルク。「私」はこの騎士兵を男性だと思い込んだ状態で魅了されているのが特徴です。「私」の虚弱体質から生まれたものだと思うのですが、異様なほど男性の逞しい様に惹き付けられていることが多いです。この逞しさから生命の輝きの強さを感じ取り、反動的に生命の失いをも汲み取るのが理由なのでしょうか。そうすると、ジャンヌダルクが女性とわかった後、二度と絵本を開くことは無かったという描写とも合致します。

また聖セバスチャンへの肉欲がほとばしる場面では、聖セバスチャンに浮かぶ明瞭な死に惹かれているように思います。逆説的に死から男性的な力を感じたと説明することも出来そうな気がします。

しかし自分で書いておいてあれなのですが、ほとほとあまい気がしますね…

おそらくキーポイントは如何に悲劇的で禍々しいかだと思っているので、大きく外した考察では無いと思っているんですがね、うーん。難しい。

続き書きます。男性への肉欲で1番印象的なのは近江の懸垂を「私」が眺めるシーンです。

そもそも近江は札付の不良生徒です。「私」から見れば悲劇そのものだったのでは ないかと思います。不良はいわば異質であり、正常な空間の秩序を乱す、反乱分子となりうる要素です。異常は直ちに排除されるのが集団、特に宗教的集団においては常です。(コンビニ人間の表現を利用してます。読了してる方、結構ここ類似性あると思いませんか?)それにもかかわらず、近江が自身の異常さを表に出し堂々とする描写もあります。

懸垂を眺めた「私」は近江の腋窩の豊穣な毛、二の腕、肩の肉など、「男性らしさ」を象徴する生命力の無益な夥しさに魅了されます。ここで「私」は近江への嫉妬を自覚するわけです。「寸分違わず近江に似たい」という嫉妬は、男性的生命力、そして正常化の仮面を不必要とする生き方にあるのかもしれません。文章中に懸垂をしている近江の姿は磔にされた聖セバスチャンそのものだったというような表現があります。この叙述を見ると、上記の考えも自分の中でスッキリ纏まってくる気がします。

死の間際は生命が著しく輝き美しいものであるという解釈をすれば、「私」が死を羨望し、憧れを抱く対象物としているため、男性的生命力を得て死を美しく見せる存在となりたいと願っていると推察できます。

また近江も聖セバスチャンも共に正常空間にただ1人異常を示す者であり、淘汰される危機(死)に瀕している美しさを有している類似性があるため魅了されているのではないかという考えも浮かんできます。

これで聖セバスチャンへの異様な取り憑きも説明することが出来たのではないでしょうか。

今のところ死への耽美的価値観、男性への肉欲、悲劇的なものへの官能的で根源的欲求は互いに作用し合うような関係性にありそうですよね。

ちなみに近江は夏休み中に退学処分にあったらしく、ここで近江と「私」の関係は途切れるので、同性愛が主題になるのは結構あとになりますね。

次は女性への不能の可能性を感じ始めるようになります。

 

続きの考察は次のブログであげます!

 

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