あかあか録

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三島由紀夫の例の映画

三島由紀夫vs東大全共闘という映画を見ました。

字面からは思想主義的なイメージが強く、遠ざけがちになるかもしれないが、これは誰にでもオススメしたい映画だったので、できるだけネタバレ少なめに丁寧に書こうと思います!

 

まぁ、50年前なんでネタバレもクソもないんですけど…笑

 

〇鑑賞した理由

僕は政治思想主義は持ってないし、なんなら三島由紀夫作品は読んだことがないです。(お恥ずかしい。)ただ、「自分がこれから触れないジャンルかもしれない」と思い、「あえて観てやろう」という自身への小さな反骨精神で興味を持ったにすぎません。

 

〇概要

まず初めに簡単に三島由紀夫と東大全共闘について映画の中でとりわけ重要である部分を書き記します

 

三島由紀夫は言わずと知れた戦後日本の文豪で、右翼(保守派)天皇論支持者です。

東大全共闘は当時の東大学生が組織した共産主義組織、つまり左翼団体です。

 

舞台は東大駒場キャンパスにある900番講堂

東大全共闘は討論会と称された集会を開き、「日本の将来について語りたい」との理由でその場に三島由紀夫氏を招待します。

右翼と左翼が議論を交わそうと言うのです。今じゃ考えられない。笑

 

この映画は三島由紀夫と東大全共闘の2時間に及ぶ議論を流しているという構成としては端的なものです。

 

〇とりわけ惹かれた議論

他者の位置づけの議論は1番面白かったですね。

一見すると「あれ?革命の話は?」って思うかもしれないですが、これはバチバチに関係してます。

そもそも革命というのは「国家」と「国民」の関係性を逆転させる、つまりは位置づけを思い切り変えてしまう行為です。

それに、闘争の際には「暴力」が付随しますから、どうしても暴力を与える「相手」の存在が浮き出てくるわけです。

三島氏はこの議論においてサルトルの「存在と無」に書かれた「エロチズム」の表現を引用しました。

サルトルは「1番卑猥なものというのは手足を縛った女の裸体」だと言います。これは他者が自分の意志を主張する術を無くし、こちら側の思いどおりになる状況のことであると三島氏は解説。

そうなると暴力は非エロチズムの象徴であるというのです。

つまり、「相手の主体性を認めているからこそ、暴力という手段で対抗するしかないんだ」というのです。

他者の存在を、暴力で浮き彫りにしようなんて説明に不覚にも声を漏らしてしまいました。

 

〇僕が考えるこの映画の魅力

それは、「言葉が力を1番持っていた時代の象徴」であったという点です。

左翼と右翼というあからさまに対立する2つが討論を行っている、これだけでも異様なことですが、それに加え「お互いを言い負かそうとはしていない」んですよね。

戦後日本は今まで個人を国家(天皇)と一致させていた人々が終戦を機にその拠り所を無くし苦悩にされされていた時代です。その後、どうにかして自己を確立しようと皆が「思想」を求めた頃だと思うんです。

思想を自身のものにするために、あらゆる知識を蓄え、言語化することを繰り返し続けてきた彼らにとって「言葉」が持つ力というのは現代に比べ遥かに強力だったんです。

強力でないと思想は単なる虚構に過ぎなくなり、自分を空っぽにしてしまいますからね。

だからこそ、学生と三島はそれはそれは丁寧に議論を進めます。

静かなる闘争、とでも言っていいんでしょうか。曖昧さを一切残さないように議論の定義を慎重に進めていくんです。

自分の中に相手の主張を取り込み噛み砕いて、それでも違和感があればそこを指摘する姿勢が、言霊を美しく残そうという意思が垣間見えてとても感銘を受けました。

 

〇感想

先にも書いたように、この時代の人々は自己の確立のために「思想」を利用しました。だからこそ、言葉の運用は秀でて美しく、高尚な議論も活発であったと思うんです。なぜ現代では議論はマイノリティな手段になったのか考えてみたんです。それは決して現代日本人が劣ったのではなく、自己確立の手段が簡易的または多様になったのだと思います。

InstagramSNSにより「投稿」を行うだけで自己承認欲求が満たされやすくなったり、流行を追いやすくなりました。

故に、昔のような知性至上主義とならずとも、あらゆるツールで存在価値を見いだせるようになったのだと思います。

その代わり、言葉の力はあらぬ方向に利用され始めました。特に誹謗中傷、発信者の姿が見えずと言霊は恣意性を持ち続けながらさまようになりやすくなったため、昔とはまた違ったストレスを与えられやすくなったのだと思います。

それに、アイデンティティは簡易的であるが故に虚弱であるために、すぐさまに自分が空っぽになってしまう事態も起きやすいなと考えさせられましたね。

言葉の時代による役割の違いがこんなにも明確なのかと衝撃と悲しさを覚えました。

どちらが果たしていいのか、答えはないと思いますが、できれば僕も自分の内から生み出した言葉や思考でアイデンティティを見つけたいと強く思いましたね。

 

ぜひとも映画を鑑賞して、言葉のあるべき姿というものを実感してほしいなと思います。

 

これ上手く感想書けてるのかな…不安だ…

よく分からなくなってたらごめんなさい💦

 

ここまで読んでくれてありがとうございました!

 

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